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日本画 浦上玉堂

     浦上玉堂 担雲閣雨図

浦上玉堂(うらかみ ぎょくどう)は1745年(延享2年)に岡山藩(現・岡山県浅口市)に藩士の子として生まれたが若くして漢詩、琴そして絵を好んだ風流人であり、50歳で脱藩して以降に残された山水画をもってして雪舟と並び評されるほどの日本画家である。 特に琴に親しみ36歳の時に入手した「玉堂清韻」と銘された七弦琴にちなんで自らを「玉堂」と名乗ったほどで、脱藩後に会津藩に請われて神社の神楽復興 に携わるなど音楽においても名声を博していた。 鴨方藩の大目付などを勤める程の上級藩士であったが風流に溺れる様子は評判が良かったとは言えず、寛政異学の禁により、朱子学以外の学問が禁止されたのを良しとせず50歳で脱藩した。 この時の心境を自ら「岡山ハ一向学問流行不仕候」とか「岡山ハ日々殺風景」と述べていて、これを機に文雅の道に邁進して行った。 昭和に入って浦上玉堂が雪舟と並び評されるようになったのにはドイツの建築家ブルーノ・タウトが伊勢神宮、桂離宮を世界に紹介した時に、玉堂の絵を見て「これこそ世界的に有名なゴッホの絵に匹敵する近代日本の最高の画家だ」と賞賛した事が大きい。 玉堂の描く山水は伝統的技法の中に秘していた暗示を露にしたところが最大の特徴である。 彼の信奉する儒教、老荘思想にある無死無終の循環的な時間・空間、すなわち生命の輪廻を山水の中にシンボリックに描き出したと言えよう。 「寒林間処図」を見てみると、まさに男根そのものと思わせる山塊が聳え立っている。 儒者である玉堂にとって死とは、単に大自然の混沌の中に戻って行くだけのことであり、その混沌こそ陰陽二気の交錯する世界であったのであろう。 そこでは夫婦仲睦まじく節度を保った関係を保ち、子々孫々に至る繁栄を願う思想が根底にあるため、陰陽和合はむしろ聖人の教えといえようか。 七弦琴を携え詩を吟じる玉堂にとって、山水画はサブカルチャーにすぎなかったのであろうか、その筆法は素人的で素朴そのものであるが、かえって今日では日本の最高峰の画家と言われることとなった。

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